甘い囁きが




さみしい




午前一時すぎから二月堂の舞台(欄干)にもたれていまかいまかと待っていた。半にも近づくと、局から出てきた御婦人たちが、先に待っていたものたちの隙間を無理矢理みつけて当たり前のように入り込んでくる。それもなんだかなぁと思っているところに、驚くことを訊ねてくる女がいた。イマカラナニガハジマルノデスカ?まず耳を疑った。疑いすぎて答える気になれない。わざわざ真夜中の一時まで、二月堂の舞台に上がってきておいて、なにをゆうてるのか。だれも返事もしないそれでもオミズトリ?ときいてくるのが煩わしくて、はい。とだけ声を出してしまった。
夕刻に十本がいっきに舞台に並ぶおたいまつを絵馬茶屋から見た日、おたいまつが始まる直前に茶屋で席が隣になった婦人は、とても上品で、桑名から自家用車で見にきたのだと話してくれた。よく夫と二人でみにきていたのだけど、数年前に夫が病になり、初めて一人できたのだそうだ。今日のおたいまつは10分ほどで終わるから見たら直ぐに宿に帰ります、明日は交野の友人のところへゆきます、と話す婦人は、まるで糊こぼしの椿のようだった。宿で夕食があるのに、ついおぜんざいを食べちゃうのね、なんて恥ずかしそうに。いえいえ、わたしなんか、わらびもちのあとに茶粥まで食べてます、とまでは告げなかったけど、全部電気を消した茶屋からいよいよと結願を迎えるおたいまつを見るのは、静かで、おだやかで、大変しあわせ、だった。

わたしのしあわせ


このカラダが動く最後の日まで働いていたいなと日頃は祈っているのに、こんな春の日に音楽を聴きはじめたなら、急に哀しくなってきて、誰にも何にも告げず、何にもないところへ行ってお日様を浴びながら日なが寝っ転がっていたいな、と想う。
わたしはしあわせをまだしらない。まだしらないから哀しい。
こんな何にもない日がとわにあればいいのにと祈っている。

ジュークボックスとニックケイブ



もうすぐ東寺から居なくなってしまうみなみ会館にて『アランフェスの麗しき日々』と『花筐HANAGATAMI』をみました。アランフェスは朝一番の回だからか、観客はわたしを含めて三人くらいのだったのに、次の花筐では、なんだかたくさんの人が待っていました。わたしを含め御年配の人が多かったです。
アランフェスに出てきたジュークボックスをみていたら、薪ストーブ並みに欲しくなってきました。はて、ジュークボックスは、今でも新品を作っているのでしょうか。あるルールのもと進む男女のダイアローグ、美しい夏のような景色に美しい声のトーンのフランス語が起きぬけで電車に乗ってきたわたしを眠りに誘いまくりました。対して、花筐は音量が大きくて、場面転換が多くて、不自然なまでに誇張した表現が目まぐるしく、渦潮のなかに突き落とされたような気持ちでみていました。大林宣彦監督作品といえば、子供の頃テレビで『さびしんぼう』や『転校生』を何回もみていました。子供の頃ですから深く考えることもなく、夢をみているようなお話し、くらいにしか思ってなかったなーと思ってましたが、子供ながらもお話しのあちこちに忍ぶ居心地の悪い黒い陰みたいなものに少しは気付いていたのかもしれない、と花筐をみていて思いだしました。大学生のころに『ベルリン天使の歌』をみたとき、若さゆえのフラストレーションがはち切れんばかりになっていたわたしには、魂の救済のような映画でした。いまになって強く印象づけられてきたアランフェスは、わたしを眠りに誘って深く同調させようとしていたのかもしれない。ジュークボックスから奏でられるだけでは飽きたらず、ニックケイブがピアノを弾きながら歌っている構図。アランフェスの麗しく流れる時間は、耳にするもの目に映るものが生々しく芳しく、すべての映画監督が嫉妬する時間だと思います。

桃の花と未開梅




↑桃の花

↑未開梅


先日、なかにしの『六坊庵』でいただいた練り切りのお菓子の名前は「桃の花」でした。駄目元で仕事帰りに、珠光餅もとめて『六坊庵』へ行ったけど、三月上旬並みの気候の週末だもな、売り切れていました。珠光餅は、来年までおあずけにすることに決めました。せっかく『六坊庵』まできたのだから、またお薄とお菓子をいただいていくことにしました。こないだののんびりとした平日と違って、今日は忙しそうでした。隣のアベックの男の方が、ドコイク?ドコイク?となにやらマップを広げていました。そうでした、今日は、まちなかバルの二日めでした。今日も床の間や入り口の生け花が綺麗な『六坊庵』で、今日は「未開梅」をいただき、半生のお干菓子をおみやげに買って帰りました。
春ぼらけ。