夏の聲




夏は生の讃歌であるが、死の讃歌でもある。太陽の光りがない冬ののりこえかたがいまだにわからない。わたしがしぬとしたら、冬のせいだろうけれど、せめて夏にしにたい。せめてものなぐさめに、


外出の機会が増えてきて、TVが見れない。TVは大好きだけれど、情報の仕訳が大変で疲れる。情報がただの宣伝であっても良いのだけれど、面白ければ良いのに、作るほうも疲れkitteるいるようで、宣伝であることを隠しきれていない。から、疲れる。


ただの偶然が重なるだけで運命だとおもって一喜一憂していた時分が懐かしい。知らなくてもよいことを知ってしまって、ぜんぶ白髪になってしまって、ただただ疲れてばかりいる。だとしても、kittoシアワセであることには違いない。わたしは、未だにシアワセであることに違いない。